フーコー

権力への眼差し

そもそもなぜ権力があるのか?

誰が権力を握っているのか?:権力は利害を調整する力。

権力は常に肥大化し、個人をコントロールしようとする。それは恐怖とともに進化してきた。

しかし権力は、上から支配する圧力ではない。あらゆる所で、その場の関係から生ずる力を利用して働く、内在的力である。

1. 権力は、無数の点から出発し、不規則な一定しない諸関係によって成立するゲームの中で機能する。

2. 権力の諸関係は、経済、学問、性といった現象が生み出しれいる諸関係の外にあるものではなく、そうした諸関係の中に作りだされているものである。

3. 権力は、下部からくる。支配する者、支配される者という古典的な二項図式は否定される。社会の基盤にある家族や社会、サークルなどの小集団の中に生み出される力の関係が、全体を統括する権力関係の基盤となる。

4. 権力をふるうのは、特定の個人でもなく、特定の司令部でもない。あくまでも、諸関係の中で、その作用によって権力が行使されるに過ぎない。

5. 権力の外部に抵抗があるのではなく、抵抗は、あくまでも権力の内部にある。一つの固定した抵抗の拠点があるのではない。あくまでも、諸関係の網の目の中で、不規則に発生するのが、抵抗であり、権力は、この不規則な抵抗を完全に排除することは出来ない。そして、この抵抗点が、戦略的に結び付けられて作動したとき、革命が可能になる。

見えない権力

「パノプティコン」(一望監視施設)は中央に監視塔がありその周囲にドーナツ型に独房が並ぶ。中央からは一望できるが、独房からは見えず、いつも監視されている圧力を感じ、規律を守る。

監視を意識させることで規律を内面化させていく。私たちの主体性も権力の監視のもとで去勢され、規格化された自己規律になってしまうのだ。

これこそが、生存との引き換えによる権力の従順を強いる「生の権力」だ。

欲望を出す

欲望→対立→権力による解決

権力が恐れることは、ただ1つ。力の結集である。それは超国家的な制度、世界的な多国籍企業などだ。またインターネットを中国が恐れる理由もここにある。欧米でもまだデモ行進が評価されるのはここである。

狂気について

1. 近代以前における狂気

神聖病―狂気は神の訪れ(の痕跡)狂気=天才で尊敬対象

2. 「古典主義時代」(17C中〜19C初)―大いなる囲みこみの時代

3. 1656年(パリ)一般施療院の設立

「十七世紀の半ばに、急激な変化が起こる。狂気の世界が排除の世界に一変するのである。

ヨーロッパ全土で大規模な収容施設が作られる。この施設は狂者を収容するだけでなく、少なくともわれわれから見て非常に多様な人々を収容するためのものであった――貧しい身体障害者、困窮した老人、乞食、頑固な怠け者、性病患者、全ての種類のリベルタン、家族や王権の意向によって公式の処罰を加えるのを避けたい人々、浪費家の父親、禁令に従わない聖職者など。要するに理性、道徳、社会の秩序に対して、「壊乱」の兆候を示す人々が閉じ込められたのである。」(『精神疾患とパーソナリティ』中山元訳)

狂気=理性では理解不能な対象、隔離の対象へと大きく変化


4. 「狂人の解放」(ピネル)

それは解放ではなく、狂気を二重の意味で封じ込めた(狂人の二重の自己疎外)。

「ピネル、テューク、およびその同時代人や後継者たちは、監禁という古い慣行の鎖を解いたのではない。逆に狂人の周りを鎖で締めつけたのである。テュークがヨーク近郊に設立した理想的な収容施設は、狂者の周囲に家庭のような空間を復元し、そこで狂者くつろげるようにすることを目的としていた。そして実際には、狂者はまさにこの空間において、たえず社会的および道徳的に管理されるのである。狂者を治癒させるということは、依存感情、謙譲の念、罪の自覚、感謝など、家庭生活の道徳の骨組みを狂者に再び植え込むことを意味した。」