エピクロス

Epikouros

「エピキュリアン(epicurian)」と言えば、「快楽主義者」を指す。高級ワインとかフランス料理とか、酒池肉林の世界である。

しかし実際のエピクロスは「エピキュリアン」では全くなかった。

1)生涯

35歳でアテネに出て、小さな土地を買い、庭園とし(エピクロスの園)、多くの弟子をそこに集め、哲学の研究に励みながら、質素な生活を送った。

2)基本的立場

原子論→感覚論

快楽主義(快楽が善である)

個人の幸福の追求(身体の健康、心の平静) 

3)世界観

デモクリトスの原子論を踏襲

神や人間の魂を含む、すべての存在は、虚しい空間(ケノス)の中で動く原子と、その偶然的運動から出来ている。

原子の運動が、感覚を生む。人間の知識は、従って、すべて感覚に由来する。

死は、魂を構成する原子を散逸させ、感覚作用を終止させる。

4)倫理学

a)死や超自然的存在(神)がもたらす恐怖からの解放

「死はわれわれにとって無関係である。なぜなら、われわれが現在するときには死は現在せず、死が現在する時にはわれわれは存在しないから。」

「神々はたしかに存在してはいる、なぜなら、神々についての認識は、明瞭であるから。しかし、神々は、多くの人々が信じているようなものではない。…多くの人々が神々について主張するところは、偽りの想定であって、それによると、悪人には、最大の禍が、いや(犠牲を捧げたりなどすれば)最大の利益さえもが、神々から降りかかるというのだからである。」

b)社会生活

公的生活も、死の恐怖と同様、幸福な生活を乱すから、これに関与してはならない。

「隠れて生きよ」

「自分の庭を耕せ」

c)快楽の追求

快楽は、唯一最高の善であり、人間の生活の目標である。

ただし、この場合の快楽とは、精神的なものであり、具体的には、(精神的、肉体的)苦痛が存在しないことを意味する。

ストア派とエピクロス派の比較

宇宙 目標 理想 社会生活
ストア派 ストア派 物質(=神)の理性的秩序(=必然的法則の支配) 善=徳=理性に従う生活 克己 感情を支配 アパテイア(無情念) 世界市民主義(コスモポリタン) 善=徳=理性に従う生活 克己 感情を支配 アパテイア(無情念) 世界市民主義(コスモポリタン)
エピクロス派 原子論 偶然性 (無神論) 快楽=善 個人の幸福=快楽の総量の最大化 アタラクシア(心の平安) 徹底的個人主義 「隠れて生きよ」


キュプロスのゼノン(333/2-261B.C.)

「ピレモンもまた『哲学者たち』という劇の中で、次のように述べているからである。

   一片のパンと、おかずは乾し無花果、それに水を飲むだけのこと。

   この人は新しい哲学を創り出し、

   飢えることを教えているが、それでも弟子たちは集まってくるのだから。」

「というのも、彼は、九十八歳まで生きて世を去ったのであるが、生涯の最後まで病気にかかることもなく健康を保っていたからである。

ところで、彼の最期の模様は次のようなものであった。すなわち、彼は学園から出かけて行くこうとしたとき、つまずいて倒れ、足の指を折った。それで彼は、大地を拳で叩いて、『ニオベ』の中から、

   いま行くところだ、どうしてそう、わたしを呼び立てるのか。

という一行を口にした。そしてその場で、自分の息の根をとめて死んだのであった。」

「このゆえに、ゼノンが最初に、『人間の自然本性について』の中で、(人生の)目的は「自然と一致和合して(ホモログーメノース)生きること」であると言ったのであるが、そのことは、「徳に従って生きること」に他ならなかったのである。なぜなら、自然はわれわれを導いて徳へ向かわせるからである。‥‥しかしまた、クリュシッポスが『目的ついて』第一巻の中で述べているように、「徳に従って生きる」ことは、「自然によって生ずる事柄の経験に即して生きる」ことに等しいのである。なぜなら、われわれの自然(本性)は、宇宙万有の自然の部分だからである。

それゆえに、自然に随従して(アコルートース)生きることが(人生の)目的となるわけであり。すなわちそれは、各人が自分自身の自然(本性)にも、また宇宙万有の自然にも従っているということであり、そしてその場合には、共通の法(コイノス・ノモス)が―この共通の法とは、万物に遍くゆきわたっている正しい理法(オルトス・ロゴス)であり、それはまた、存在するものすべてを秩序づけるにあたっての指導者である、あのゼウスと同一のものなのであるが―通常禁止していることは何ひとつ行わないのということなのである。そしてまさにそのことが、幸福の人が身につけている徳であり、かれの生の淀みなき流れなのであるが、それは各人の傍らにつきそっているダイモーン(守護霊)と、万有の統括者の意志との間の一致協和にもとづいて、全てのことが行われる場合に生ずることなのである。」

セネカ

「我々は、単に外見だけの善ではなく、堅実で不変で、しかも、隠れたほうの部分ほど美しい或る善を求めようではないか。…

ストア派のすべての人々の間で意見の一致をみているように、私は自然の定めに従う。自然から迷い出るころなく、自然の法則と理想に順応して自己を形成すること、これが英知なのである。」

(セネカ「幸福な人生について」

エピクテトス

「世にはわれわれの力の及ぶものと、及ばないものとがある。

われわれの力の及ぶものは、判断、努力、欲望、嫌悪など、一言でいえば、われわれの意志の所産の一切である。われわれの力の及ばないものは、われわれの肉体、財産、名誉、官職など、われわれの所為(せい)ではない一切のものである。われわれの力の及ぶものは、その性質上、自由であり、禁止されることもなく、妨害されこともない。が、われわれの力の及ばないものは、無力で、隷属的で、妨害されやすく、他人の力の中にあるものである。」

「人を不安にするものは、事柄そのものではなく、むしろそれに関する人の考えである。だから、死は本来、それ自体として恐ろしいものではない、そうでなかったら、ソクラテスもまた死を恐れたはずである。死が恐ろしいものだという先入的な考えがむしろ恐ろしいのである。それゆえ、われわれは、何者かによって妨げられ、不安にされ、あるいは悩まされたなら、決して他人を咎めてはならない。むしろ責むべきものは、われわれ自身、ことにそれに関するわれわれの考えである。自分の不幸のために、他人を責めるのは、無教養者の仕方であり、自分を責めるのは、初学者の仕方であり、自分もを他人をも責めないのが、教養者の、完全に教育された者の、仕方である。」

「君が知恵の正しい進歩を欲するならば、次のような誤った考えをまず取り除かねばならぬ、「自分の財産を不注意に取り扱うならば、やがて生計の道を失うだろう。自分の息子を罰しなければ彼は悪人になるであろう。」不安の心を抱いて贅沢三昧に暮らすよりも、恐れと憂いなしに死んだ方が勝っている。自分が不幸になるよりも、息子が悪人になる方が勝っている。」

「忘れてならないことは、君は人生において、饗宴の席におけるように振る舞わなければならぬことである。馳走の皿が君の前に回ってきたなら、手を差し伸べてその中から控えめに少しの分量をとれ。君の好むものが、しばらく回ってこなかったからといって、強いてそれを求めてはならぬ。むしろそれが君のところに回ってくるまで待っていよ。妻子や身分や富に関しても同様に振舞うが良い。そうすれば君は、いつかは神々の客人となるであろう。」

「あまりに長く肉体上のことに、例えば飲食やその他のことに、かかわっているのは、品性の卑しいしるしである。これらのことはすべて余計なものとして取り扱わねばならぬ。時間と精力とは、もっぱら精神のために用いなければならぬ。」

ヒルティ『幸福論』「エピクテトス」